場は異様なまでの緊迫感に包まれていた。其処彼処に不穏さを孕み、それは呼吸すら困難なほどの粘度を持ち少女の身体に纏わりつく。
ギルガメッシュの背中越しに見るランサーの姿はその中でも最たるものだった。自身の中にあるイメージとの差異のあまりにグラグラと眩暈が起きる。男がランサーであると悟りはしたものの、未だに脳髄はそれを理解しようとはしていなかった。
――アレは、何だ。
先刻とは違う意味でろくな働きをしてくれない思考回路の中を、ただその一言だけが駆け回る。それはぐるぐるとシナプスを廻り、バターが溶けるように疑問を蕩かせ、正確な判断を阻害していた。
「冷たいモンだ。オレはとの約束を果たしに来たってのによ」
くつくつと咽喉の奥で笑いながら、油断なく獲物を構えた槍兵が告げる。
この《ランサー》と名乗った存在が、万が一にもの知りうる彼と同じであるというのならば――交わした約束とやらは一つしかない。
教会の地下に潜む《棺》の開放への協力――
しかしそれは簡単な事ではない。教会内の敷地に存在するという事は、すなわち言峰がそれを了承しているということでもある。言峰はランサーのマスター、サーヴァントは主人の命に逆らう事は難しい。それがランサーのように忠義を貫く質の者であれば尚更だ。
そして、《棺》の所有者たるギルガメッシュもみすみすそれを見逃すはずもなかろう。だからこそ正面切って楯突けば彼との対決は避けられない。
両者共に、が頼み込んだところで引き下がるわけでもない事は十分承知していた。故には聖杯を欲した。二人と争う事無く、己の願いを叶える手段として――
「…約束だと?」
「あァ、そうさ。はお前に消えて欲しいんだとよ」
さらりと。くすんだ蒼の男はそう軽々言ってのけた。
ギルガメッシュが息を飲んだのが判る。しかし、それ以上には驚きを覚えていた。
「――違うッ! わたしは――」
「違いやしないだろ。あの《棺》は金ピカの魔力源の一つだ。
サーヴァントの命を繋ぐものは何よりも魔力。代替もなしにそれを潰すって事は、そいつに消えて欲しいと思っている事に等しい」
咄嗟に否定の声を上げる少女へ、しかしランサーは愉快気に事実を突きつけてきた。
そう――の願いは初めから矛盾したモノだった。
相反する願いを持ち、自身には叶えられぬ夢を抱き、気付かなかった綻びをそのままに無理な約束を交わした。変貌した槍兵はただその事を指摘しただけである。
反論する術を奪われ、少女はぐっと言葉を飲む。その様にカラカラと笑いながら、尚もランサーは言葉を続けた。
「で…テメエに死んでくれと願っているそいつをいつまでそうして隠してるつもりだ? らしくないぜ、英雄王」
何が愉しいのか、槍兵は酷く饒舌だった。それに反して、ギルガメッシュはただ無言を貫いている。酷薄な笑みを浮かべるランサーは無表情の英雄王の反応を心待ちにしているようで、彼から仕掛けようとする気配はない。
すう、と上げられていたギルガメッシュの腕が下がった。彼の纏っていた殺気が散開してゆく。ゆっくりと、男は自身の背後にいるものに視線を向けた。
「――貴様の望みは何だ」
まるで刃のような一言だった。親しみも、温もりも、凡そ人間味というものの一切が含まれていない。ただただ薄く、低く、冷酷で不可視の刃が少女の髄を直接抉る。
言葉と同じく、冷え切った燐光を宿す赤い目がを貫いた。答えるのが怖い、と思う反面、応えなければならないという強迫観念が少女を追い立てる。
は数度空気を求めるかのように咽喉を喘がせ、そして擦れた声で己の妄想を口にした。
「…《棺》を、解放する、こと」
途切れ途切れの言葉にもギルガメッシュは手を休める事はなかった。淡々と、しかし強い強制力を伴ない、王は問い続ける。
「そのために、ランサーと何を交わした」
「《誓約》、を。わたし、に、きょうりょくを、してくれ、る――」
それがの限界だった。ひぅ、と咽喉が鳴る。息が続かない。膝が崩れないのが不思議なほどだった。
しかし英霊の――それも英雄王と謳われる存在からのプレッシャーに耐え切れず、意識よりも先に身体の機能が停止する。酸素の供給を止められ、意識が急速に混濁し始めた。
反射的に激しく咳き込み始めた少女をそれ以上問い詰めることもなく、ギルガメッシュはすっと視線を前方に戻した。
「…下らん。浅慮にも程がある」
ふん、と男はの告白をつまらなそうに一刀両断した。それ以上興味はないとでもいう風に、ギルガメッシュは意識の全てを完全に眼前の敵に対して向ける。
そうしてようやく男の圧力から解放されたは、自身の回復に全てをつぎ込む事が出来た。それをよそに男達のやり取りは尚も続く。
「あのような《棺》が無くとも、我は現界出来る。それを知らぬ貴様ではなかろう」
「さぁて、ね。例えそうだとしても――貴様が目障りであることには違いない」
その一言に空気が再び凍った。その笑みをようやく消し、ランサーは手にした魔槍を番えるが如く構える。
腰を低く落とし、目を三日月のように細めていた。肌寒く感じるほどの濃厚な魔力が槍兵に向かい集っていく。赤黒い槍の姿が霞むように鳴動する。
「何より馬鹿でかいテメエの魂は最高の滋養だからな。約束なんぞ無くとも貰い受ける気でいたさ」
「本音が出たな狗め」
ギルガメッシュの言葉は心底から吐き捨てるものだった。彼を包むように、一瞬の閃光が場を焼く。それはの網膜も例外ではなかった。
光の残像がちらつく視界の中、少女の前に立ちふさがっていた男の姿は一変していた。その本質は変わらず、そのくせにその姿が本来のものなのだと一目で判る。豪奢なまでの金色の鎧は、まさにギルガメッシュの装束に相応しい壮麗さと力強さを放っていた。
がしゃり、と金属音が響く。黄金の英霊は再びその腕を虚空へと掲げた。
「――泥に飲まれ立場を変えたとしても、所詮は使いしか出来ぬ走狗如き我の敵ではない」
ギルガメッシュの言葉と同時に、彼の背後に無数の武具の柄が出現する。
そのうちから一つの剣をギルガメッシュは引き出した。それは――剣と呼ぶにはあまりに異質なモノだった。
刃はドリルそのものの形状であり、普通に考えて『剣』というカテゴライズは不相応に思える。どちらかといえば槍のような外見だ。それでもはそれが『剣』なのだと何故か理解出来た。
「…ほぅ」
ランサーがその剣を面白そうに見つめ、声を上げる。僅かに相互を崩したその瞬間、ギルガメッシュが動いた。
重量がかなりありそうな鎧だったが、それを感じさせない鋭い踏み込み。僅かに離れていた間合いを瞬時に詰めると、ギルガメッシュは躊躇無く螺旋を模った剣をランサーの片腹に向け――弓兵のクラスに相応しくそれを投擲した。
「――ッ!」
ランサーの脚は止まっていた。動く筈のそれがまるで大地に縫いとめられているかのように微動だにしない。否、脚だけではない。彼の全身が凍りつき、胴体がさらけ出されている。
『剣』は無防備に、まるで吸い込まれているかのようにランサーの脇腹目掛けて風を斬る。が瞬きをした次の瞬間には、苦も無く刃は彼の腹にのめりこみ、血と臓腑を思う様にばら撒くだろう。
「――ランサーッ!!」
自身の想像を否定するようには叫ぶ。少女とて自由になるのは視覚と思考、そして声だけだった。四肢は糸の絡まったマリオネットのように自由に動かすことが出来ない。
悲鳴に何処までも酷似したの声が広場に木霊する。しかし、無情にも『剣』の刃はランサーの腹に突き刺さって――
「…なんてな」
ニィ、と狗が哄う。動けなかったはずの彼は、自身に迫っていた『剣』の腹を己の腹の側面と腕のそれとで挟むようにして鋼の侵攻を食い止めていた。
は思わずほっと安堵の息を漏らす。しかし、ギルガメッシュはそれとは真逆に、ギリと音がするほどに歯を噛み鳴らしていた。
「……"螺旋剣"を止めるか」
「流石に刺さると痛いんでな。そうさせてもらった」
ランサーは捉えた"螺旋剣"――カラドボルグと呼ばれたそれを地へ放る。剣はカラン、と乾いた音を石畳に響かせた後、即座にその姿を無へと返した。
チッと、大きく舌打ちをし、忌々しげにギルガメッシュは呟く。
「《誓約》すら飲まれたか。矛盾に満ちた貴様は実に見苦しい」
「勝てば官軍。生き残ってこそだろ」
なあ、と同意を求めるようにランサーの目がを捕らえる。
琥珀色のそれに、はぎゅうと手にしていた彼より託されたピアスを握り締めた。愉悦を湛えたランサーの歪な視線とは違い、少女の持つそれは今も凛とした気配を秘めている。それを寄り代に、は槍兵の射抜くような眼差しを真っ向から見据えていた。
「おお、怖い怖い。オレはの為に頑張ってるってのになぁ。報酬がそれってのは実に味気ないこった」
くつくつと笑い声を噛み殺しているが、そこからちらつくランサーの目は酷く冷たかった。をまるで値踏みしているかのような瞳に、少女の背が一気に毛羽立つ。ギルガメッシュの圧倒的なプレッシャーとも違う、怖気ではない嫌悪感がの内部で渦巻いていた。
槍兵の目と自身の内にある感情に押され、の足が僅かに後退する。まさにその時を待ち、狙い定めていたかのように、ランサーの姿が二人の前から掻き消えた。
「――な…ッ」
うめくようにギルガメッシュが声を漏らす。即座に身を翻し、彼の後方へ向きを転換したが、それよりも速くランサーは少女の眼前――ギルガメッシュと彼女との間に出来てしまった空間にその身を滑り込ませていた。
当然、は動けない。ランサーは自身の能力にある超速的なスピードを持って移動したに過ぎないが、英霊ではない少女にとっては瞬間移動に等しいものだった。
自分の目の前に現れた男に呆然とする。蒼黒い影は場に到達したのと同じくらいの速度で、少女に手を伸ばすと――の頬を引寄せ、己の唇を落とした。
「――――え?」
何か酷く冷たいものが触れた。そうが自覚した次の瞬間には、目の前の影は消え失せていた。
実質それは瞬きほどの時間だったのだろう。ランサーが近付いてきて、少女の頬に小さな接吻を与えて――氷の口付けに、少女の思考は再び停止していた。
恐る恐る、は触れられた頬を探る。指に伝わる感触は酷く熱かった。それで自分が相当に赤面をしている事を自覚する。
「…また逢いに来るぜ。それまでオレを忘れるなよ」
何処からか声が聴こえた。それがまるで合図だったかのようにの膝が崩れ落ちる。同時に、圧倒的な脱力感が少女の身を襲った。恐ろしいほどの重さが目蓋と意識にかかる。
確証はなかったが、ぼやけていく自我の中では感じていた。
――喰べられた。
何が、までは判らない。ただ、そう思っただけだ。手の中にあるルーン石を最後の力を込めて握り締める。
何重にも敷かれた幕の向こう側で、誰かが己の名前を叫んでいるような気配。それに応えるよりも速く、の意識は薄闇の中へと落ちていった。