Seventh Heaven

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2/7: Maze -1-

 はた、と目覚めた時。少女の視界に真っ先に映ったものは、無表情な神父の顔だった。

「――――ッ?!」

 思わず反射的に後ずさりをし、当然の事ながらベッドの天板に頭をしこたまぶつける。ゴン、という音が頭蓋の中で響き、目の前には色とりどりの星が舞った。

「〜〜〜〜〜〜っ」
「…目覚めたか」

 声なき悲鳴を上げながらゴロゴロとのたうつ彼女など気にも留めず、淡々と神父はそう言葉を紡いだ。痛みと驚きで視界が滲み、ぼやけたその片隅で言峰がベッドの傍らにあるテーブルに何かを置いたのが見えた。
 それにしても目覚めのインパクトとしては恐らくは最大級だった事は間違いない。まずは精神が、次に肉体が凄まじい強制力をもって覚醒させられた。寝起きの無防備なところに言峰神父の登場、というのはさしもの少女とて実に心臓に悪い。
 痛む脳天を擦りながら少女は上半身を起こした。ぐるり、と改めて周囲を見渡すとそこは自身の部屋ではなく、言峰の私室のようだった。モノが必要最低限以下のこの場所はまずそれで間違いあるまい。

「なんで、私ここに…?」

 真っ先に思い浮かんだ疑問はそれだった。彼女の記憶は――大きな喪失感を伴なったところで消失している。身体は鉛のように重く、末端の血管に血が通っていないのか若干動きが鈍かった。試しに指を動かしてみるが、まるで長い間油を注していない蝶番のようにギシギシとしていた。

「随分と無理をしたようだな」
「……そう、みたい」
「これはお前のものか?」

 言葉とともに示されたのは見覚えのあるものだった。すべらかに研磨されたルーンのピアス。
 痛覚が薄れてきた思考回路に、夢幻のような記憶が甦る。一瞬だけ迷って、はコクリと小さく頷いた。そっと、神父の手にあるそれを自身の手中に収める。

「…預かり物、かな」
「そうか。ランサーがしていたものと同じに見えるが」
「うん… ランサーから、預かったの」

 ズキリ、と左胸の奥が痛んだ。痛みではない理由から再び目が熱くなる。さしたる抵抗なく戻ってきたピアスの表面を、少しだけ撫ぜてスカートのポケットに大事に仕舞った。
 昨夜対峙した彼は――認めたくはなかったが、このピアスを渡してくれたランサーであった。まるで別人のようになっていたが、それでも彼が彼であるという確固たる確信をは持っている。
 その一番の理由はランサーとの《誓約》だ。これはともう一人の当事者たる彼しか知り得ないもの。それを、あのくすんだ蒼い彼が口にした事は――あの者とランサーが同一であることの証明でもあった。

 黙り込んでしまったの眼前に、ピアスに続いてマグカップが差し出される。僅かな湯気を伴なうカップの中には真っ黒い色をした液体が並々と注がれていた。コーヒーのような色をしているが、匂いはあの香ばしいそれではない。チラ、と横のテーブルに視線を動かすと、そこにあったはずのものがなかった。恐らく今手にしているカップがそれなのだろう。
 ひとまずそれをギクシャクとした動きで受け取る。暖かさが僅かに感じられるが、反面ジワリと背に何か予兆のようなモノが伝った。おずおずと、上目で探るように言峰の表情を窺う。

「これ、なに」
「薬だ」

 単純で明快な答えだった。その一言に少女は渦巻いていた鬱々とした気分が吹っ飛んだ。
 の知りうる限りの『薬』というものは、小さな錠剤だったりカプセルだったり粉だったりしていた。無論、液状の物も飲んだ事はあるが――このように暗黒そのもののような色合いはしていなかったはずだ。

「……おくすり、なんだ。コレ」
「お前を診たところ相当に魔力を失っている。それを補助するものだと思えば良い」

 淡々と言葉を紡ぐ神父だったが、心なしかその表情は綻んでいた。直感的には彼がこの状況を楽しんでいる事に気づいた。
 神父の感性が少なくとも自分とは違う価値観を持っている、というのは薄々感じていたが――その矢面に立たされると、やはり気後れもする。否、ただ単純にこの薬とやらを口にしたくないだけかもしれないが。今まで自分を数多く助けてきてくれた直感が『これは危険である』と強く警告をしていた。
 はた、と危機に直面したお陰か、はたまた逃避の為か。少女は神父に訊ね損ねていたことがあることを思い出す。

「あ、そ、そうだっ! 何でわたしここにいるの?」
「昨晩倒れたことも忘れているのか?」
「一応覚えているけど…倒れたら、ここまでこれないでしょ?」
「ギルガメッシュがお前をここまで連れてきた」

 そう言えば意識が失われる寸前、自身の名を呼んでいたのは彼だったように思う。酷く今更な事ではあるが。
 あの場にいた者は全部で三名、内一人は消えてしまい自身は意識朦朧。ならば確かに彼しかいないだろう。

「――ギル様、ギル様は? 運んでくれたお礼…言わなきゃ」

 ぎゅっと、手の中のカップを握り締める。
 ――礼を言う資格などあるのか。そんな疑問が巣食ってはいるが、それでも何か一言言わねばならない気がした。
 知らなかった――理解しようとしなかった――とはいえ、ギルガメッシュに対して大変な《願い》を抱いてしまったことを詫びねば気がすまない。
 そんな少女の問い掛けも予想の範疇内だったのか、言峰は別段動じる様子もなく用意していたかのような回答を繰り出した。

「あれはここを出ると言っていた」
「……え?」
「ランサーの調査に行く、と言っていた。何時戻るかまでは残していかなかったが」

 ざぁ、と血の気が引く。脳裏に昨夜の光景が甦った。
 対峙する二人。琥珀と紅玉の冷たさ。展開する大きな力と力――

「――止めなきゃ」

 あの二人を戦わせてはいけない。違う、戦って欲しくない。
 傷付けあって、疵付きあってだなんて、そんな事絶対にイヤだ!

「…そう思うのは勝手だが、ろくに動けぬ身体でどうするつもりだ?」

 その真っ当な指摘にははっと言葉を飲んだ。ぎしり、と音でも立つのではないかと思うほど唐突に泳いでいた体が止まる。
 言峰の言うとおり、今のは何時にもまして枷が多い。手先の感覚がぼやけている事もそうだが――全身に漂う倦怠感は隠しようがない。『魔力が失われている』という先刻の言峰の言葉が思い出された。
 カップを支えていた手の片方を外し、自身の頬に添える。触れたのは昨夜ランサーの唇が落ちた場所。そこは一夜明けた今もなおひやりとしていた。

 サーヴァントの糧とは魂。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。自分の魂――魔力の一部があの時に喰べられたのだとあの時感じた。
 の瞳に僅かではあるが昏い光が落ちる。厭が応にも再び昨夜の出来事が思い出されたからだ。
 変わってしまったランサー、冷淡な眼差しのギルガメッシュ。確かに側らにあったはずの二つの暖かな存在が途轍もなく稀薄になってしまったように思える。

 数日前に感じていたものと同等の――否、それよりも遥かに強い感情がの胸に広がる。圧倒的な無力感。何も出来ないことよりも性質の悪い――間違えた選択をしてしまった自分。
 これからどうすればよいのだろう。先の見えぬ暗がりで一縷の光明に縋ったはずが、より深いところに陥ってしまった。

「――よ」

 神父からの呼びかけに、は面を上げる。知らず知らずのうちに俯いてしまっていたようだった。
 ぼんやりと、どこか焦点の合わぬ意識で少女は言峰と視線を合わせる。言峰がをフルネームで呼びかけるときは、大抵の場合において重要な物事を告げるときであった。それを知ってか知らずか、少しだけ少女は居住まいを立て直した。
 沈黙はどれくらいだったろうか。じっと台詞の続きを待っていると、彼は憎らしいくらいにいつもと変わらぬ口調でこう言った。

「お前の《望み》は何だ?」

 ――望み。
 改めて問われ、思わずは自身の内でその概念を反芻した。

 何も知らなかった頃、ただ今の生活がずっと続くものだと思っていた。
 知ってしまった後、《家族》の安寧を願った。
 では今は? 身近であったはずの二人の姿は消え、自身も消耗しているこの今は?

 目蓋を閉じると、その裏に浮かんでは消える数々の思い出がある。笑ったり、怒ったり、悲しんだり…楽しかった思い出だ。
 今のはそれがどれだけ替え難いものかを知っている。むしろ無くしてしまったからこそかもしれない。存外素直にそう理解している自分自身に苦い気持ちになった。

 ――結局、自分の《望み》など本質的には変わっていない。
 そんな結論に達したところで自らを省みることを中断し、そっと目を開ける。少しだけ苦笑するように、少女は口を開いた。

「やっぱり《棺》の解放、かな。《棺》を解放するだけじゃなくて、何か代わりのごはんの元を見つけてから…だけど。
 それから――」

 続けるような口ぶりのに、僅かに神父の眉が動いた。

「――ランサーを元に戻すこと」

 そう。自分の《望み》にはそれは必要不可欠だ。
 ランサーがいて、ギルガメッシュがいて、言峰がいる。彼ら三人と共にあること――それがの持つ願いの本質だ。

「歪んだ妄想だな」
「うん」

 言峰の揶揄には迷う事無く肯定した。
 間違いなく、の《望み》は世迷い事の類だ。自身では叶える術の見当すらつかない願いを抱いている。しかもそれを諦める事が出来ないでいるのだから、我ながら始末におえないと今は自覚していた。
 しかしそれすらも、こうして改めて問い掛けられねば判らなかっただろう。自身の湾曲した望みを自覚しただけでも収穫だったかもしれない。
 そう心中で呟くに対し、言峰はふうと小さく息をついた。彼は少しだけどこか面白くなさそうな表情を浮かべながら言葉を続ける。

「…まあいい。お前がそう願うというのならば、それを叶えるべく足掻いて見せろ」
「うん。そうしてみる」
「ならば早々にそれを飲み干すがいい」

 すっと、神父はの手の中にあるカップを指し示した。既に湯気が立ち上らなくなって久しいそれに視線を落としつつ、ひくりとの口の端が引き攣った。
 うっかりと意識の外に出ていた――むしろ積極的に排除しようとしていた感もある――それに、再び粘つく汗が手に纏わりつく。

「…………飲まなきゃ、ダメ?」
「それはお前の自由だ。飲まずに数日寝込むか、飲んで即日動けるようになるかの差に過ぎんからな」
「……飲む」

 その二択であれば、今のに『飲まない』を選ぶことなど出来ない。こうやって迷ううちにも時間は行き過ぎ、事態は着々と進行しているだろう。一分一秒でも惜しいのだが――

「特製の薬湯だ。心して飲むがよい」

 言峰のその一言に更に汗が噴出す。嫌な予感がかつてないほどにするが、どうやら回避は不可能らしい。無論、その退路を断ったのは自身だ。
 すぅ、とは一際大きく息を吸った。それと同時に覚悟を決める。ぐっと腹と眉間に力を込め、カップを口元まで運ぶ。
 真っ黒い、まるで闇そのものを抽出したような薬湯を目の当たりにし、思わず心が折れそうになったが――瞳を閉じることでそれを強制的に視界から押しのけた。

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