言峰謹製・特製薬湯の効果は確かに素晴らしかった。あれほどまでに消耗し尽くしていたのに、飲んで数十分後には身体の奥から温もりが湧いてきて、歩き回るのに支障がなくなったのだ。
『味覚を犠牲にし、効力のみを追求した』と、神父は一気に飲み干して顔色を紙のように真っ白にしていたに解説したのだが、その言葉に偽りはなかったのである。
甘い、苦い、塩辛い、酸っぱい。まったりとしていてそれでいてコクがなく、薄いのか濃いのかどっちつかず。そのくせ妙にドロリと粘つき、何時までたっても口内からその感触が消えない。
一体何をどうすればああいうモノが出来上がるのだろうか――と、体調の復活したは心底謎に思った。
しかし、何はともあれこれで動き回ることが出来るようになった。ならば何時までも謎の味覚にのた打ち回るわけにも行くまい。はテキパキと身支度を整えると、自室を後にし教会を出発した。出かけに言峰には日没までには戻る、と言い残す。
何もとてあてどなく出歩くわけではない。非常にか細いものではあったが、彼女は一つ心に引っかかっているものがあった。
数日前に出会った冬の少女。名前をイリヤ――フルネームは大変長くて、覚えきれなかったが――彼女にもう一度逢う事がの今日の目的だった。聖杯のレプリカを持っていたときに知り合った少女、イリヤは聖杯戦争の関係者で、かつそれについてよく知っていると言っていた。
ランサーの変貌、そしてそれを調査すると言って出て行ったギルガメッシュ。彼らを繋ぐ糸は変化し続ける現状に揺らぐことのないもの――そもそもの発端たる《聖杯戦争》だ。
自身に出来る事は非常に少ない。それは自覚している。それでも、出来るだけの事はやろうと少女は心に決めていた。もし今日中にイリヤが見つからなければ、明日にはもう一つの心当たりである士郎の家を訊ねるつもりもある。幸いにして彼の背に乗せられて一度だけ訪れた家への道のりも覚えていた。
衛宮士郎について関わったことなどそれこそ片手で事足りるが、それでも彼が心の優しい人だということくらいは判る。彼はが血生臭いやり取りの続く聖杯戦争に直接関わろうとしている事をよくは思うまい。
それでなくとも、魔術師でもなくマスターでもない自分の事情をどれだけ理解してもらえるか不安ではある。だが、かすかな繋がりを一つずつ辿るしか今のに出来る事はないのだ。
一心に足を動かし、あのイリヤとであった公園を目指す。公園に彼女がいる保証は何処にもない。ただあの場所で偶然に出会い、多少の言葉を交わし、不確か過ぎる再開の約束をしただけだ。
蜘蛛の糸よりも細く脆いその縁は何処まで維持できているのだろう。寒さと不安にブルリと小さく身を震わせた。下がった視線の先にあるのは、今日の空と同じく暗い色合いのアスファルト。まるでそれは現在のの心を現す色のようである。
それでもただ俯いているだけではいたくない。せめて、真っ向から現状を見つめ返さねば。そんな思いを胸に少女は胸を張る。空元気も元気のうちと偉大なる先人はのたもうたのだから。
足跡はいつのまにやらを目的の公園へと導いていた。住宅地と商店街の狭間に存在するその場所は今日も寒々しい色合いで佇んでいる。塗装が剥がれ、あちこちに錆の浮き出ている遊具に一通り目を向けていると――一際鮮やかな色彩が視界に入る。キィキィと少々耳障りの良くない音を奏でているのは鮮やかな銀の髪の少女。名をイリヤスフィール=フォン=アインツベルン。
「――イリヤ!」
少女に対し、弾む声と胸を抑えながら思わずは駆け寄った。微かな望みを眼前に見せられ、再開の喜びとも相まって鼓動が早くなる。
しかし、そんなに返ってきたのはイリヤからの胡乱な眼差しだった。冷ややかなそれに、早鐘が一瞬にして鎮まってしまう。
「…また逢えたわね、」
「う、うん」
腰かけていたブランコからイリヤが立ち上がる。その一挙手一投足から意識をは放す事が出来ない。彼女の深紅の瞳に魅入られたかのように視線が剥がれないのだ。
「今日は預かりもの持っていないのね」
「あのあと、すぐに返したから」
「ふぅん… じゃあもうあなたは《聖杯》に関わらないの?」
その言葉はまるで研ぎ澄ました氷の刃のような一言だった。水を打ったかのように吹いていた風さえもが静まり返る。
はコクリ、と僅かに咽喉を鳴らした後に、ゆっくりと首を振った。
「関わりたいと、思っているの。でも、その方法が――」
「――判らないとでも言うつもり? 冗談じゃないわよ。あなた、十分に首も手も足も全部突っ込んでるじゃない!」
先ほどとはうって変わって、今度の言葉には激情にも似たものだった。キッと、鋭い目付きでイリヤはを見据える。
その変貌振りに驚きながらも、はその視線から逃れようとはしなかった。逃げられないのではなく、自分の意思からそれを受け止める。
「昨日、あなたを商店街で見かけたわ。隣にいた男もね」
「…えっ?」
昨日というと――ギルガメッシュの伴をして商店街を練り歩いていた頃だろうか。別段取り立てて怒られたり、敵意を持たれたりするような行為ではなかったようには思う。
イリヤが何故憤っているのかよく判らず、は首を捻った。その態度がどうやら更に冬の少女の怒りに油を注いだらしい。わなつく手を隠すわけでもなく、ビシッと人差し指を彼女はに突きつける。同じく揺らめいている瞳には、怒りだけではない何かが陽炎のように移っているようにも見えた。
「あんなサーヴァント知らないわ! わたしが知らないサーヴァントなんて存在しちゃいけないんだからッ!!」
「で、でも…ギル様はサーヴァントだって言ってたよ。えっと、確か――アーチャーだっけ」
「――アーチャーのサーヴァントですって?」
「うん。ランサーがランサーで、ギル様がアーチャー」
の言葉に、目に見えてイリヤの顔色が変わった。それを知ってか知らずか、は以前に説明された文言を思い出すように、うーんと頭を捻っている。
イリヤは一筋の汗を頬に流しながら、確かめるように台詞と紡いだ少女へと三度問い掛けた。
「……ちょっと待って。それおかしいわ。あなた、二体同時にサーヴァントを従えてるの?!」
「ランサーとは約束…はしたけど、従えてなんていないよ。
二人は、えっと、その……《家族》、かな」
はにかむように、しかしどこか少し哀しげに言うの言葉に、今度こそイリヤは絶句した。がくり、と肩を落とすと同時にぱさりと銀の糸も下がる。
あまりに思いがけなさすぎる返答に、敵意も意欲も何もかもがこそげ取られた思いだ。失笑とも苦笑ともつかない緩んだ口からポロリと言葉が漏れる。
「なによ、それ…」
「だって本当だもん。わたしはマスターじゃないから、今こうしてイリヤに逢いたかったの」
「…もっとワケ判らないわよ」
ぐっと小さな握り拳を作って力説する自身とは対照的に、ともすればへたり込みそうなほどにイリヤが消沈しているのがにも見て取れた。
どうしたものかと思いあぐねていると、イリヤはさっと前髪をかき上げるとともに顔を表に上げる。それと同時に気持ちも切り替えたのか、鋭い瞳を――しかし、それに敵対感情などは含ませずに――に向けると、ゆっくりと問うた。
「――一応訊いておくけど」
「なぁに?」
「あなたの言っているギル……様とやらって――ひょっとして、バビロニアの英雄王ギルガメッシュのこと?」
「えいゆうおう…かは判らないけど、お名前はそうだし、生まれもバビロニアって言ってた」
記憶を探りながらの少女の答えに、やっぱり、とイリヤは頷く。
アインツベルン家が保有している聖杯戦争についての記録にその英雄の名は記載されていた。第四回における弓兵がそれである。
その出自から扱いづらさではトップクラスなのではないのだろうか、と憶測されたが、存外前回のパートナーとは馬が合ったらしく最後の二騎が内の一人まで残った…とあったはずだ。
第四回において満を持し、最高の刺客を送ったはずだったが、よりにもよって裏切りなどという最悪にして最低の事態によってアインツベルン家は聖杯を手にすることが叶わなかった。そんな聖杯戦争の残り香とでも言うべきものが、今回もまた関わってきているという事態を見過ごすことなど出来るわけがない。
自分の見知らぬサーヴァントについては、前回からの遁留ということである程度の合点はついた。恐らくは聖杯に第二の生を願ったか、あるいは――外部からの魔力補給によって無理矢理現界しているかのどちらかであろう。
それらの事を分析しながら、その一方でふとイリヤはある考えに行き着いた。
この聖杯戦争は、どこか歪んでいるのではないか。
否――そもそもの発端からして歪んでいたのかもしれないが、今回は極め付けなのではないのか。
イリヤとて近頃この冬木の町で連続して起きている憔悴・神隠し・惨殺事件については疑問を持っていた。サーヴァントの栄養補給にしては手口が雑――魔術師であれば、ないしは多少頭の回るものであればこそ、補給活動は密やかに行うはずである――なのも納得いかない。
事態は思ったよりも悪い方へと静かに流れているのではないか。イリヤとて多少のトラブルであれば勝ち残る自信と実力を持ってはいるが、イレギュラーが続けばその限りではない。
なにより――あのギルガメッシュという英雄は、他の英雄においておおよそ最悪の敵である。英雄にはそれぞれ《弱点》のようなものが存在する。その多くはその英雄を死へと至らしめたものであり、英雄が生前の伝説において形作られている限り、その弱点は克服のしようのないものでもある。なぜならば英雄談は大抵の場合死をもってその幕を閉じるものだからだ。
そして、あの黄金王はその弱点を全てつくことが出来る《英雄殺し》とでも言うべき存在だ。全ての英雄の原典。全ての宝具の原本。無尽蔵にあらわれる圧倒的な《力》の前には、12の命を持つギリシャの英雄たるバーサーカーでも正直に言って分が悪い。
しかし、そんな彼とて結局はサーヴァントである。《聖杯》の名において召喚されている限り、マスターの令呪には逆らうことなど出来ない。
は主人などではないというが、昨日における二人の行動ややり取りを見ていたイリヤにとってそうは思えなかった。あの男は少女に対して少なからず意識を割いており、だからこそイリヤは彼女があのサーヴァントのマスターであると思ったのである。
英雄とは誇り高きものである。故に簡単に迎合しない。彼らに認められるには相当な努力が必要だ。もし少女があの英雄の主人でないとするならば――《令呪》などではない、もっと次元の違う《契約》めいたものでも交わしているのだろう。それは大変な苦を労するものだ。そんな人間は早々いない。
眉間に深く谷を作り、無言のまま考えを取りまとめていたイリヤは、自身に向けられている視線にようやく気がついた。へなり、と眉を八の字に下げ、どこか心配そうな眼差しである。
そんなにくすり、と小さな笑みを目線の主へ送ると、イリヤはこう宣言した。
「…どうやら状況は、わたしの思っているよりも変化しているみたいね。
――いいわ。の知りたがっている事に答えてあげる」