「――えっ?」
イリヤの言葉に、の口から小さく驚きが漏れる。その反応を予測していたのか、イリヤは更に続けた。
「確か、前に《聖杯戦争》について知りたがっていたわよね。サーヴァントやマスターの事を知っていたって事は、多少なりとも《聖杯戦争》について既に知っているんでしょうけど…物事を多角的に見る事はマイナスにはならないわ。
今がどんな壁にぶつかっているかは判らないけど、少なくとも今回の戦争がすべての始まりだという事は違いない。そうでしょう?」
「う、うん」
「だったら、判断材料は多い方がいいわ。お互いの知りたがっている事に関して、情報交換といきましょう」
微笑むイリヤの表情は、心からのもののように感じられる。もとより、は多くの情報を求めてイリヤとの微かな縁を辿っているのだ。この申し出は少女にとっても願ったり叶ったりである。
一瞬だけそう考えた後、は表情を引き締めて小さく頷いた。
「――わかった。でも、わたしは何を話せばいいの?」
「そうね… まずは貴女の知っている《聖杯戦争》について、訊かせてもらえる? それから、ギルガメッシュについても」
「うん」
首を縦に振り、了承の意をは示す。そして、己の知りうる限りの《聖杯戦争》についての知識を訥々と述べた。
聖杯戦争を仕組んだ始まりの三家、サーヴァントシステム、英霊、協会と教会、監督役、クラス特性などなど――自身も、完全に理解しているというわけでは無いが、それでも自分なりの言葉でイリヤに説明する。それに相槌を打ちながらも、イリヤの表情は徐々に強張っていった。
「――わたしが知っているのは、これくらいよ」
「…………」
「イリヤ? どうしたの、何か間違ってた?」
「……そうね。殆どは正しいようだけど、一つだけ抜けている事があるわ」
ふう、と大きな溜息を一つつく。瞳を軽く閉じて、イリヤはすっと人差し指を立てた。
「サーヴァントとマスターはこの地の聖杯戦争において、常に七組と決まっているの。一つのクラスの重複もなくね。
つまり、今回の戦争には二人の《弓兵》がいる事になるわ」
「…どういうこと?」
「――の知る《弓兵》はギルガメッシュでしょうけど…彼はイレギュラーよ。今回の《弓兵》は別にいる。彼のほうが正規の弓兵である事は間違いないわ。
本来それぞれの聖杯戦争が終結した際に、マスターとサーヴァントの契約はサーヴァント側の意志によって破棄されるの。お互いの利害の一致がなくなったわけだし、そもそもサーヴァントを現界させるための大部分を聖杯が担っていた訳だからこれは当然の事よ。
仮にお互いの利害が一致したままだとしても、聖杯の助けもなしに英霊をこの世に留めるには、相応の対価が必要になるわ。それも存続し続ける限りずっと。
…その心当たりはある?」
静かなイリヤの問いに、は数瞬の間を置いてコクリ、と頷いた。
心当たりといえば、あの場所しか思い浮かばない。薄青い燐光に照らされた聖堂の奥。穿たれた孔の中に存在する《兄姉》達の《棺》――
緩々と命を搾取しているあの空間こそが、ギルガメッシュの糧となる《苦痛》という名の源感情を生み出している生産工場。脳裏にまざまざと浮かび上がったあの場所の感覚が、の神経に入り込む。あるはずもない、ホルマリンの幻香が鼻の奥に甦る。
目に見えて顔色の変わった少女に、イリヤは『やっぱり』と小さく呟いた。己の仮説を裏付ける証言が入ったことで、イリヤは次なる問題点へと思考を切り替える。
「ギルガメッシュの事についてはこれで大体納得いったわ。これでわたしの聞きたかった事は聞けたことだし…次はの番ね」
「うん」
「マスターじゃないからダメだなんて、一体どんなことなのよ」
「えっと…マスターは令呪でサーヴァントにお願いを3回まできいてもらえるんでしょ? 令呪って、マスターじゃなくてももらえるものなの?」
「基本的にはマスターでないとダメね。何しろ神経と一体化したものだから、霊媒と治癒の能力を持っていないと移植すら難しいし…
まあ、マスターが令呪で第三者の言うことを一度だけ聞け、と願えば別かもしれないけれど…そんな勿体無くて馬鹿なこと願うマスターなんていないわ」
――それによって、マスター自身が利益を受けるのならば話は別だけど。
この言葉は音にはせず、イリヤは自身の胸の内だけで呟いた。当然は人の心を覗き込むような能力を持つ者ではないので、隠された意見など読み取れない。
イリヤのはっきりと言い切る答えに、はガックリとその小さな肩を落とした。
「…そっか。やっぱり、マスターじゃなきゃダメなんだ」
「まあ、仮にも英霊を使役するわけだから、それくらいの枷あって当然だとは思うけど。一体何を願うつもりだったのよ」
「……ギル様に《棺》を使うのをやめてって」
「…………………《棺》って、魂の搾取用のもののこと? それ、餓死して下さいっていうようなものじゃない」
「うん。だから、その代わりに別のものってことで…例えば、聖杯にお願いをしようかなって」
「――完全に本末転倒ね、それ」
全くの正論にはうん、と小さく肯定するしかなかった。
どれほどまでに捻れた願いを持っているのか、自分自身でも理解はしているつもりだ。しかし、そうだとしても叶えたい望みでもある。堂々巡りの突破口を探し出すために模索しているはずなのだが、まるで蟻地獄のようにもがけばもがく程に深みへ嵌っていっているようだ。
どうすれば、皆で幸せになれるのだろう――
少女の願いの根幹。そのあまりに遠いゴールラインに、意図せず目頭が熱くなる。泣いてはいけない、泣くものかと隠すように両手で顔を覆い塞ぐと、掠れる様な声では呟いた。
「ランサーも、どうやれば元に戻るんだろ…」
「…ランサー? 彼はまだ残っているんじゃないの?」
不思議そうに訊ねてくるイリヤの声に、は首をゆっくりと横に振る。
「今のランサーは、ランサーじゃないの。キレイとの《契約》はないし、黒い何かで――変わっちゃった」
「――――なんですって?」
イリヤの声がはっきりと強張ったのがにも判った。彼女は焦りにも似た性急さで言葉を続ける。それはまるで、自分自身の言い現せぬ不安を打ち消すようでもあった。
「ランサーはまだ現界しているはずでしょう? いいえ、まだ今回の戦争ではどのサーヴァントも失われてはいないはず。そうでなければおかしいわ」
「…消えたわけじゃないもん。変わっちゃったの。
あれはランサーだけど…ランサーじゃない。わたしの知ってるランサーは、あんな怖いワライカタはしないもの」
沈痛に、しかし確信を持って。はその事実をイリヤに告げる。失われてしまったあの笑顔。澄み切った青空のような瞳の青年に逢いたいと言う気持ちが沸騰する。
ぎゅっと、血が滲み出さんほどに拳を握り締めると、はまるで独り言のようにごちた。
「ギル様はランサーが変わっちゃった原因を調べに教会から出ていっちゃった。今の二人が、もう一度会っちゃったら、多分――ううん、絶対にケンカになる。どっちかがいなくなるまで、ずっと」
それはまるで神託のような予感だった。昨夜のやり取りを思えば、その予見は寸分も狂わず的中するであろう。
自身の嫌な想像を振り払うように、は頭を大きく横に振った。
「そんなのわたしは絶対にイヤなの。ギル様も、ランサーも、キレイも。みんなで仲良く、一緒にいたい!
…だから、マスターになりたかったの。そうすれば、ギル様を止められる。少なくとも、ランサーとのケンカの回数を減らせる。その間にランサーを元に戻す方法を探すことが出来る」
始めはポツリポツリとした吐露は、次第に激しさを増していく。心の奥底に沈んだ泥を吐き出すように、はただただ言葉を吐き続けた。
少女の独白を、イリヤはただ凪のような瞳で静聴している。音を出さぬことで、に対して発言の続行を求めているようでもあった。
「ギル様は、きっと普通のお願いの仕方だったら訊いてくれないと思うの。だからマスターになりたいの。
もしもなれるんだったら――」
「――なんでもする?」
そっと、イリヤは鈴の声音を差し込ませる。凛とした発音に、ハッとは眼差しを冬の少女に向けた。
イリヤの表情は真剣だった。射貫かんばかりの紅い眼差しが、昨夜の英雄王のそれとダブる。沈黙を許さぬ強い視線は、彼と同じく問い掛けた質問への明確な回答を要求していた。
はそれを真っ向から受け止める。コクリ、と咽喉が鳴った。
「――もちろんよ」
そして流れる静寂。冬の風が二人の身体を心から冷やそうと襲い掛かる。
どれほどの時間だったのだろうか。十秒、あるいは一分、いやそれ以上か――感覚の麻痺した頭では正確なところはわからなかったが、暫しの間を置いて無言の帳をイリヤが破った。
「だったら、方法がなくもないわ」
「…ホントッ!?」
「ええ。でもそれには協力者が絶対に必要よ」
「協力、者?」
「そうよ。方法はいくつかあるけど…まあそれは道々説明してあげる」
言って、イリヤはクルリと踵を返した。てくてくと公園の出口へ向かって歩いていく。
「ほら、ボーっとしてないで。ギルガメッシュのマスターのところまで案内するのはの役よ」
「う、うん!」
ちらほらと、まるで急かすように空からは雪の綿毛が落ちてくる。風も冷たさを増し、いまさらながらに寒さによる震えが少女の身体を襲った。
意図が読めず立ち止まっていただったが、振り返ったイリヤの不機嫌な声にようやく動き出す。
そうして少女ら二人は、足早に灰色の公園から出て行った。