の凛とした決意が、紅の空間を僅かに揺らしてから暫し。静まったその場で次に声を上げたのは神父だった。
「――そうか」
その表情は常と変わらず――否、僅かに笑んでいるかのようにも見えた。口元だけが歪むそれではなく、目元も微かに弧を描くその表情に、イリヤは内心瞠目する。
「お前は聖杯戦争について知りえた。少なくとも、ただ己の知らぬうちに全てが素通りするという事は既にあるまい。
それでもなお――望むか。己の身を更なる危険に晒してでも、内にある願いを叶える為にサーヴァントのマスターとなることを」
問い掛ける神父の言葉は穏やかだ。世の当然の理を説くようなそれに、は真っ直ぐに向き合いながら返した。
「知ったからこそ――わたしは、マスターになりたい。
ランサーとギル様がケンカしあうのは、見たくないの。今の私だと何も出来ないけど、マスターになれば少なくともギル様にお願いを訊いてもらえる。そしたら、その間にランサーを元に戻すための方法を探せる」
「――では、問おう。よ、サーヴァントのマスターになることを望むその真なる理由とは何だ」
「……幸せになりたいから。わたしはギル様も、ランサーも、勿論キレイも――三人一緒でこの教会で暮らしていきたい!」
もはや、揺らぎはない。例えそれがどんなに困難な事であろうとも、少女の決意は固まっている。
の発露する想いを読み取ったか、言峰は一瞬瞑目するように目蓋を伏せ――
「…よかろう。だが、こちらにも一つ条件がある」
その言葉には表情をぱっと閃かせ、イリヤは逆に訝しげに眉根を寄せた。
異なる両者の反応を楽しむように、すぅっと言峰の瞳が細まる。
「なに、簡単なことだ。ギルガメッシュを誘き寄せよ」
「……えっ?」
「どんな手段を用いても構わん。奴がお前の元へと駆けつけるような事があれば、マスターの権利を譲渡しよう」
「――随分とアッサリ手放すのね。他人から奪ったり、外法を使ってまで十年間を維持した者の言葉とは思えないわ」
イリヤの疑問は尤もなものだった。十年という年月を、聖杯の補助なく真っ当な手段で維持できるとは到底考えられない。どのような手段を取ったのかまでは把握していないが、魔術的な知識と合理性から考えれば真っ先に思い浮かぶのは『魂食い』だ。それに関してははから《棺》という言質をとってある。
『魂食い』を利用していた事は間違いないだろうが、それには相当のリスクを伴なう。魔術師の基本ルールは、一般人に知られぬように秘密裏に事を行うこと。英霊なんていう魂の比重の重たい存在――しかもギルガメッシュは比重に関して言えば最高ランクだ――を維持しようと思えば、搾取するとしてもかなり大々的に行わねばなるまい。
それを支払ってまでも前回のサーヴァントを維持したとあれば、マスターになみなみならぬ野望があったと考えるのが通常であろう。
しかしその当然ともいえる問いかけにも、言峰はさしたる揺らぎも見せずさらりと言い切った。
「そう言うな。もとより私に望みなどない。ランサーを得たのも、より良い《願望者》に聖杯を与えたかっただけだ」
「…がその願望者足りえると?」
「ああ。少なくとも、この私にとってはな」
その言葉にイリヤは内心舌打った。結局のところ彼は自分からの問いかけをのらりくらりと交わしているだけだ。
なおも彼の腹を探ろうと思うも、言峰の視線はイリヤからへと移されている。どうやれば呼び戻せるのだろう、と疑問符を浮かべたままの幼子へそっと近付く。己の疑問に囚われているはそれに気付いていない。
その大きな体躯を折り、言峰は身を屈める。近付いたその耳元で神父は囁く様に極小さな声音で告げた。
「あれは今ここを離れているが、例の魔力通路はいまだ解放されている。それを利用すれば容易かろう」
「――――…っ」
ばね仕掛けのように勢いよく、少女の頭が跳ね上がる。言峰の言葉にの大きな目が見開かれた。
男の示す事柄について、即座に脳裏に思い浮かぶ光景がある。湿気を帯びたほの昏い水底。そこで眠る兄姉達。彼らの存在意義は唯一つ。
声にならない、音にもならない、そんな息が咽喉から掠れるように漏れた。
「何を言われたか知らないけど――その顔色じゃ、誘き寄せるための心当たりがあるって事ね」
言峰の囁きは彼女には届いていなかったのだろう。やや訝しげなままのイリヤの言葉に、は少しの間をおいて小さく頷く。そしてそのまま、また顔を俯かせた。
少女の顔面は蒼白で、一切の血の気がない。どうして《それ》が判ってしまったのか――その手段に思い当たってしまった自分自身に愕然としているようだった。
そんなを神父は酷く満足げな微笑を浮かべて見下ろしている。酷薄とすら言えるであろうその表情に、イリヤは強い嫌悪感を眉間に表した。
「――やれることがあるなら、やるしかないわ」
そこにどんな思惑が隠れていようとも――
言外にそう呟いて、イリヤは傍らの少女に視線を向けた。の顔色は依然悪い。しかしその瞳に宿る光の強さは変わっていない。むしろ、以前に逢った頃と比べれば段違いだった。
伏せたままだった顔をあげると、はおずおずと言峰に進言した。
「…あの場所をイリヤに見せても大丈夫かな。ギル様怒らない?」
「構わん。ギルガメッシュはお前の処遇を私に任せると言った。好きにするがいい」
その言葉には小さく頷くと、そっとイリヤの手を握った。僅かに震え、冷たい指先が少女の心情を表しているようでもある。
「見てもらいたいところがあるの。来て、くれる?」
「――ええ」
恐らくは《棺》の場所へと案内するつもりなのだろう。そう察したイリヤは特に何もいわず、ただ是だけを返した。
その返答に小さく笑って、は少女の手を取ったまま礼拝堂を抜けるべく中庭へ続く扉へと足を向ける。
イリヤも彼女の後に続いて歩む。神父の脇をすり抜ける際に、ちらりと横目で見た男の表情は――どこか先々の展開を楽しむようなモノに見えた。
※ ※ ※
「――これは」
その一言だけを呟いて、イリヤは言葉を失った。
英雄王の維持は相当の負荷を強いられる。それは理解していたつもりであったが、想像以上の光景が眼前にあった。
ケミカルの気配とそれに反するような魔術的な意思。その両者が酷く歪に組みあがり、源感情を錬成し続けている。効率や対費用の面から見て、この場は確かに搾取に特化した、最も最適なものではあった。
綺麗事ばかりを論じられるほど、イリヤ自身も真っ当では無いが――それでもこの現場は何も知らないはずだった一介の年若い子供に見せるべきではないものである。そのことだけは感じられるだけの理性はまだ残っていた。
「…本当は、わたしもここにいるはずだったの」
地獄を前に、はぽつぽつと語る。
己が生贄としてこの教会へやってきたこと。不思議な予感を受け度重なってきたその危機を乗り切ってきたこと。《棺》の存在意義のこと。この場に対する自分の決意のこと――
静かにそれに耳を傾けていたイリヤが、ふっと口を開く。
「…さっきの神父からの言葉って、結局何だったの?」
「――ここを使えば簡単だ、ってそう教えてくれたの」
弱々しくはイリヤに応えた。自嘲するような笑みを浮かべ、ポツリと呟く。
「ご飯がなくなったら…誰でもビックリするよね。勝手に持っていった人を探そうとすると思う」
そこまで行って、はふぅと小さく息をついた。その視線は、どこか遠い。
「だからきっと――ここがなくなれば、ギル様は戻ってくる。
それにここがなくなるのは、わたしの願いでもあるから… おにいちゃんやおねえちゃんたちを、ゆっくり眠らせてあげたいの」
「…貴方自身がそれを選ぶのなら、何もいう事はないわ。元々、私の提案もギルガメッシュを従わせるという点では同一なワケだし。でも――」
そこまで言ってイリヤは言葉を止める。
冬木の街に眠る聖杯を作り上げた三家が一つとして聖杯を手に入れる。アインツベルンにとってこれは悲願であり、そのために自分は存在している。
元来であれば自分一人で事を成しえる自信はあった。そのための《力》も持ち合わせている。だが現状を顧みれば、五回目を数える今回はとかくイレギュラーが多かった。
前回より僅か10年というインターバルの短さ、二人の弓兵、開催して暫らく経つというのに全く脱落するサーヴァントがいない現実、そして変質したと言う槍兵――これらを考慮し、イリヤは情報を求めていた。
衛宮士郎は遠坂凛と組む気配を見せたこと、さらには立ち回りと利用しやすさを考えて、イリヤはターゲットをに定めた。彼女へ助言する大きな理由は、ギルガメッシュへの牽制と言う部分も大きい。
彼女とての立場や成り立ちを全て理解しているわけでは無いが――現状手に入る全ての情報を分析した上では――言峰からの提示は実に合理的だった。力のないがサーヴァントという力とマスターという絶対的な立場を手に入れるため、最も効率がよく、かつ即効性がある。
イリヤにしてみれば脅威であるギルガメッシュの行動を抑制できるだけでもに協力する価値はあった。
ただしそれには問題点も存在する。ギルガメッシュの感情面を全く考慮に入れていないことが唯一にして最大の欠点だ。はいまだ令呪を手にしてはいない。あくまで、現マスターは言峰なのだ。彼が約束を反故にしないという確証もなければ、ギルガメッシュ本人が感情を爆発させる可能性とてある。
そもそもどうやってこの《棺》をは消滅させるつもりなのだろうか。疑問と疑念に口ごもるイリヤに、は小さく笑んだ。
「――大丈夫。きっと…やってみせるから」
それでも、その声は壊れかけのラジオのように酷く震えていた。青ざめた顔色は未だ血の色を取り戻していなかったし、見れば小刻みに手足が震えている。
はぎゅっと――怖れるように――きつく目を閉じ、祈るように両手を組む。細く長く息を吐き出すと、そっと目蓋を開いた。
覚悟を固めたのだろうか。解放された眼差しは、強い意志に彩られている。まるで別人を見ているようなその様に、イリヤは思わず僅かに息を飲んだ。
少女はその足を踏み出すと、《棺》に横たわる者へその手をそっと添える。小さな唇から、澄んだ音が漏れた。
「…わたしが殺す」
――私が生かす
「わたしが傷つけ――」
――私が癒す
ぽつりぽつりと零れる言葉と雫が、横たわるものへと降り注ぐ。かつて輝くばかりの命をもっていたはずの《入れ物》は、少女の訴えに応えるようにゆっくりと蕩けていた。
「――これは」
今日一番の驚きがイリヤの身体に走った。
命が魔力となり《大源》へと変換される。聖堂全体へ広がろうとするその流れは、驚くべきことに少女の内へと染みこみように吸い込まれているのだ。
己の立場に対する純粋な疑問に満ちていた魂の声が、安寧に包まれ眠るように意識が昇華されている。奪われている、と言ってもよいはずなのに、吸われる魂は安堵の感情すら浮かべていた。
――ようやく、眠れる。
そんな呟きが、耳からではなく、精神そのものに響いてくる。
が紡ぐ文言は、聖言に似ていた。魔術と言うよりもまさに奇跡に近い。ただの人間が出来ることではないことだ。
「…ね。大丈夫でしょう?」
一人の魂を見送り、一息ついて微笑む少女の姿にイリヤは僅かな違和感を感じた。その疑念は直ぐに答えが出る。
――髪が、伸びている。
肩口で切りそろえられていたそれが、今は肩甲骨のあたりにまで襟足を伸ばしていた。
「、それ――」
「ああ… 多分、魔力が溢れちゃったからだね。この調子だと全身伸びちゃうだろうな」
前にもあったんだ、と存外あっさりと少女は答えた。
その態度に呆気に取られる。先刻までの悲壮な様子からは考えられない、あっけらかんとしたそれに言葉がでない。解放した力によって高揚しているのだろうか。
戸惑いを察したのだろう。少女は苦笑交じりにイリヤへと言葉を綴る。
「今の私が見せられるカードはこれでおしまい。ここは私が何とかするよ。
…イリヤは言峰の相手をしてもらえるかな? あまり一人で放置しておくのも淋しいだろうし」
その台詞にはっとイリヤは我に返る。確かに、今の彼女であればこの場を鎮めることは可能であろう。同時に言峰から目を離し過ぎるのも得策ではない。
「…そうね、あなたの願いだもの。あなた自身の手で叶えなきゃね」
僅かばかり揶揄めいた言葉に、少女は何も答えず微笑むだけだった。
その表情を答えと受け取ったのか、イリヤは踵を返して聖堂から出て行く。足音が段々と遠のき、場に残されたのは声無き声をあげる兄姉とその妹だけになった。
意識を直接に揺らす負の感情に耳をかたむけ、少女は呟く。
「――まってて。もうすぐだから、ね」
小さな言葉を紡ぐ唇は、慈愛に満ちた神のそれに酷似していた。