雲一つない、まさに抜けるような青空。そんな空に輝く太陽は、光と熱を等しく地上に注いでいる。灼熱というほどでは無いが初夏程度の熱気だ。
汗ばんだ額を風が冷却するように吹き抜ける。足元では膝ほどまでの背丈の草が、ささやかながらも耳障りの良い音楽を奏でていた。その音を伴奏にでもしているのか、コーラスを務める鳥の声が頭上から降ってくる。鳶が気持ちよさそうに大きな翼を広げながら旋回していた。
酷く心地のいい空間だが、は眼前に広がるこの光景を体感した覚えはなかった。記憶にないはずの感覚を、こうも現実的に感じることが出来るのが不思議でならない。
髪を揺らす風は優しく、頬に触れる外気は夏の気配を感じる。足元で凪いでいる草は先が尖っているためか少しくすぐったい。瑞々しい薫香が鼻腔を刺激し、深呼吸をすれば清々しさを感じる。鼓膜を震わす音には安心感すら覚えた。
一歩、足を踏み出す。
もう一歩、前へ。もう一歩、もう一歩――
歩けども世界は崩れる事無く、眼前には緑の地平線が見えるばかりだ。
狭い歩幅ではなかなか景色は移り変わらない。それでも焦燥感は湧くこともなく、ただこの風景がどこまで続いているのだろうかという一念のみでは足を前へと出し続ける。
変わり映えのしない安穏とした光景がどれほど続いただろうか――草の色ではない濃い緑をしたものが視界に入って来た。更に足を進め、それが一本の樹木であるというのが判るところまで近付く。
根元には幹を背もたれ代わりにした青年がいた。俯いているためか、目深に降りた髪の色は太陽の色をしている。光を受けキラキラと反射するそれが眩い。
上半身には何も羽織るものを身につけてはいなかったが、この陽気では特に必要と感じていないのかもしれない。何かの呪いだろうか、肌には紅紋が走っている。鍛えられた身体のラインと相まって、まるでそれが芸術ですらあるように思えてしまった。
暫らく見惚れるように青年の傍にいたが、どうやら彼は深く眠り込んでいるのかに気付くこともなく身動ぎ一つしない。ふと目を落とせば、その手には小瓶を持っていた。地には恐らくそのビンの蓋であろうコルク色をした栓が転がっている。更にその近くには何か乾燥した半透明の薄い皮膜があった。
もう一度、青年に視線を移す。下半身には随分と煤けてしまっている黄金の鎧を身につけていた。
あちらこちらに色褪せたり傷が入ったりしてしまっているが、恐らくは胸鎧の部分も同じ色だったのだろう。在りし日の姿は頭の天辺から爪先までを金色に染め、威風堂々とした佇まいだったのだに違いあるまい。
豪奢なまでの金色の鎧を想像し、小さな笑みが浮かぶ。その装束はこの青年にこそ相応しい。訳の判らぬ場所で眠る青年などに心当たりはないはずなのに、その想いは確信に近かった。
何故なら――それを身に纏った■■■■■■■を知っているからだ。
見覚えのない景色と感覚の中で、突然に訪れた強烈な既視感が頭蓋を揺さぶる。蒼い闇に対峙する黄金の男の情景が脳裏に張り付いている。
彼は何者なのか。
ここはどこなのか。
そして一体誰の事を■■■は知っているというのか。
そもそも何故そんな事を感じているのか。
たどたどしくは自らの疑問の答えを記憶の迷路から辿ろうとする。だがそれを追求するよりも早く、異変が周囲から迫っていた。
風は止み、鳥の声は消え、陽光はその鮮やかさを失い、草の匂いも霧散する。それらに気付く頃には眼前に広がる風景が音もなく瓦解し始めた。
「――っ?!」
驚きの声とも付かない音がの口から漏れた。解け消える世界は少女を中心に広がっており、青年という点に向かって音もなく収束している。まるで吸い込まれるように、視界の端から色が失せ、地に足が付いていた感覚すらも消えていった。
突然の事態に、不意にこれが現実の世界ではない可能性をはようやく思い浮かべる。このままここにいるのは危険かもしれない。そう思い、既に地面などない足元を蹴り上げて青年に手を伸ばそうとしたが、虚しく身体が泳いだだけだった。
「――……が…………なの、か」
ふ、と。青年の唇が微かに動いた。
元がか細かったのか、それとも消失するためかは判らないが、その零れ落ちた言葉はの耳に完全には聞き取ることが出来なかった。
それでも最後に一瞬だけ、彼の口元が微かに弧を描いているのを見た様な気がしたが――その直後全ては闇に飲まれた。