簡素な石造りの部屋には、常であれば家人の趣味か甘い葡萄酒の匂いが満ちている。だが今では蛋白質が焦げたような異臭が部屋に充満していた。
部屋の中央には様々な薬品や実験道具が集められ、さながら何かの実験室だ。その中央では白い灰――臭いはここが発信源のようだ――が小さな山を作っている。節くれた指がその灰をかき分け、探る。崩れていく灰山の中から、何かを摘み上げた。
「確認してみてくれるか」
ぽい、と無造作に男――言峰は銀色をしたそれを投げた。向けられた側のイリヤは慌てることもなく、冷静にそれを両手で受け取るとじっとその赤い瞳を注ぐ。
それはくすんだ銀色をした指輪だった。石などははめ込まれていない。ただ細かな紅い模様がびっしりと刻まれている。サイズは間違いなく男の指には入らない、女性向きの細さだ。
ランプの光に透かして見たり、じっくりと紋様を観察したりしながらイリヤは念入りに指輪にチェックを入れている。しばしそれを続けた後、満足げに呟いた。
「問題ないわ。まあ当然といえば当然だけど」
言ってお返しとばかりにイリヤは指輪を神父に投げ返す。男もまた同じように、些細な動揺もなくそれを受け取る。
『――私の持つ令呪を無機物に変換し、魔術師ではない第三者に譲渡できるように錬成する。
だが錬金術に関しては専門外だ。専門者の意見を聞きたい』
さも今思いついたかのように前触れもなく話し出した内容だったため半分ほど話を聞き流していたが、よくよく聴いてみれば存外に面白そうな内容であった。好奇心も手伝いイリヤは要請を受諾した。錬金術に長けた一族に連なるものとして、言峰からの提案は酷く興味をそそられたのだ。真夜中のティータイム最中に世間話のついでに話すような内容ではないとは思うが。
言峰の言い分としては、霊媒を用いた単純な移植であれば問題は無いが、素養の無い第三者に譲るとなるとそれなりの手順を踏まねばならないということだった。その事に関してはイリヤも同意見である。
材料として提示されたものは
エーテルと銀を混ぜ合わせ、髪を燃やした聖灰でもって令呪との繋ぎとする。因果を増幅させるために蛇の抜け殻も同時に燃やして混ぜ加える。簡単に説明してしまえばこんなことだが、作業は半日がかりだった。準備を整え調合を開始したのが夜明け頃、完了は夕暮れ時である。
作業自体はそう難しいものではなかった。どこで手に入れたのかは知らないが材料は全て良質のものであったし、とりわけ毛髪は飛びぬけていた。髪に魔力が宿るというのは常識だが、その際は本来の持ち主の魔力属性が強く性質として刻まれている。そのため本人以外では扱いづらいものではあるのだが、今回提示されたものは属性がまるで感じられなかった。
例えるのであれば――それは世界に漂う大源。それを凝縮したかのような物質だったが、持ち主がかの少女であると告げられれば納得をせざるを得ない。何しろ彼女自身の属性がそうであるのだから。
の異常体質に関しては作業の傍ら言峰から一通りの話を訊いた。その証拠として提示された髪の毛が錬成の材料ともなっている。今回切り取ったものをあわせずとも髪の総量はかなりものがあった。過去に幾度かあった異常成長の際のものを保管していたという。その魔力総量ときたら、一人前の魔術師をダース単位で数えねばならぬほどだ。
回数を重ねていたとはいえ、通常であればそんな量の魔力を自然吸収できるわけがない。しかもそれが魔術回路や刻印をもたぬ一般人が行っているなど常識外れにも程がある。原因不明であるということが空恐ろしい。
――否。一つだけ、可能性が無いわけではない。イリヤスフィールであればこそ予想が立つ。事実を事実として認めるだけの材料がいまだ不足はしているが、直感だけなら既に答えは出ている。故にそれはまだ告げるべき時節ではない。
異常を示すばかりの今回の聖杯戦争――七組の参加者が出揃って一週間が過ぎた。だというのにいまだ魂は一つたりとも回収されていない。その事に関しては令呪をかけていいくらいに間違いがないことだと確信を持っていた。
イリヤは手近にあった椅子に腰をかけてふう、と嘆息する。
「…まあ、元々ルール無用って部分はあったけど、ここまでルール外となるといっそ清々しささえあるわね」
指輪に移す令呪の摘出を観察していてイリヤは目を見張った。
言峰の腕にある令呪はかなりの個数が残っていた。1つや2つではきかない――何しろ視認出来ただけで10を越える。単なる魔術刻印と化しているものも多かったが、それでもその数は異常だった。
言峰綺礼は監督役である。また彼の父もそうであった。過去に起きた聖杯戦争において監督役はサーヴァントをなくしたマスターの保護も行っている。その際、未使用の令呪を摘出し保持してきたというのだから恐れ入る。
そんな監督役がマスターも兼任しているとなれば、令呪の数など問題にならない。他マスターを凌駕する圧倒的なアドバンテージだ。だからこそ簡単に替えの効かない筈の令呪を他者に分け与えられるのだろうか。
そもそも前回の対象者であるギルガメッシュをこの世に保持させたまま、今回もまた新たに他マスターからサーヴァントを奪うなど違反にも程がある。そこまでして聖杯が欲しいのか、叶えたい望みがあるのかと訊いても『特に無い。敢えて言えば監督役としてよりよい願望者に与えるためだ』などといわれれば腹にも来る。
『なら――はよりよい願望者だというのかしら』
『そうだな。あの矛盾に満ちた望みは私が手を貸すに値する』
それが、言峰綺礼が令呪をへと譲渡する最大の理由だと告げた。歪んだ聖杯戦争に相応しい参加者だと謳う。
彼女の参加により、今回の戦争はより迷走を始めるだろう。アインツベルンの娘としてそれを止めるべきなのか――正直、判断が出来ないでいた。元々第三回から取り返しのつかないほどの歪みが生じているのだ。捩れに対して更なる捩れを投入したことでもとに戻るかはたまた正常に戻るかなどやってみなくては判らない。
だからこそ、こうしてイリヤも令呪の物質化などというものに手を貸している。これは一種の賭けなのだ。
「ルールか… それを君達が口にするというのも可笑しな話だ」
「お互い様でしょう、監督役」
器具を片付けている言峰の背中に言葉をぶつけた。だが彼がそれを意に解する事はなく、ただ口の端を少々持ち上げて黙々と道具の片付けを続けている。返ってくるのは硝子のぶつかり合う高い音だけだ。
レスポンスの悪さにイリヤはわずかに肩を竦め、嘆息するように息を吐く。
ふと、どこからか人の話し声のような音がかすかに聞こえた。イリヤが訝しげに眉をひそめると、言峰もそれに気づいたのか声の発信源へと足を向ける。
そこには電源が付きっぱなしのオーディオがあった。神父が音量を調整するようにダイヤルを捻る。ラジオのタイマーでも作動したのだろうか、とイリヤが納得し始めた矢先、スピーカーから増幅された音がより強く音を流し始めた。
『――わたしのサーヴァントになってください』
その声は紛れもなくのものだった。驚きに腰掛けていた椅子から半立ちになり、イリヤはその視線を鋭く神父に投げつける。それを受けた言峰は、淡々とした調子でこう返した。
「の部屋に設置してある集音マイクだ。定位置とはずれているためかカメラはつかえないようだが、音声を聞く分には問題がない」
いいながら言峰はオーディオの近くにあった小型テレビを指し示す。移っているのは床ばかりで、確かに少女の姿は見えない。その間にもスピーカーからはとギルガメッシュのやり取りが垂れ流されている。
「魔術的な仕掛けなら、早々にバレそうなものだけど」
「なに、音声収集用に集音マイクと暗視撮影可能な小型CCDカメラを取り付け、それを無線配信しているだけに過ぎん。拡散防止用に電波はそう強くはないから、この教会敷地内が精々の感度だが…この距離であればまあ問題はない」
「……そぉ」
世間ではそれを盗聴・盗撮と呼ぶ。
ストーカーだ、と瞬時に思うが小さな淑女は何とか口にするのを堪えた。気を取り直して、魔術師としての見地から意見を述べる。
「こんなものを使うなんて、変わってるわね」
「サーヴァントは魔術の気配に我々以上に敏感であるからな。機械仕掛けのものが何かと都合がいい。
まあ元々は脱走癖のあるの監視用として設置したものだが、意外に役立つものだ」
言って言峰は小さく唇を歪めた。
ふと、怖い想像に至ってしまったイリヤは、恐る恐るといった手合いで神父に訊ねる。
「…ひょっとしてだけど。彼女の持ち物に無線機だとか追跡用の仕掛けとか仕込んでたりするのかしら」
「そうだ。何分この街は都市の規模に似合わず魔術師が多い土地だからな。下手に魔術の気配を感取られるのも面倒だ」
さらり、と悪びれることも無く返答が返ってくる。
とりあえずイリヤは目の前の男の評価を「胡散臭い監視役」から「ストーカー監視役」に改めた。監視行為事体は魔術師的立場に立ったり、後ろ暗いことを行っている事から考えれば至極当然の事なのだが…幼子と見るからに悪人面の大男という絵的な組み合わせがまずかった。
まあ、犯罪といえば今現在スピーカーから零れてくる会話もかなりそれに近い。
無知でいたいけな少女を食い物にしようとするどこぞの王様。悪逆の限りを尽くしたと伝えられる彼だから当然の成り行きといえばそのような気もしないでもないが、少女がまるで状況を判っていないのがかなり性質が悪い。
「さて、目的のものも出来上がったことだ。早速手渡すとしよう」
「……いまから? 彼女の部屋に行くの?」
「そうだが。何か問題があるのかね」
告げる言峰の声は常と変わらない――否、若干含みが感じられる。その手には耳栓ほどの大きさのワイヤレスイヤホンが二つ。そのうちの一つを片耳に仕込む。恐らくは受信機だろう。
状況から察するに、男は最もイイ場面で部屋に踏み込むつもりに違いあるまい。聖職に就く者とは思えぬ悪趣味さだ。
「なんならお前はここで待機しているか。ほぼ徹夜でもあるし、休んだほうが良かろう」
「――いいえ。もう一つ空きはあるのでしょう? だったらわたしも参加するわ」
くすり、と微笑んでイリヤは片手を差し出す。お嬢様も負けず劣らず趣味が悪い。下世話ではあるが、こういう邪魔をすることが楽しいのもある種ヒトの業と言えるだろう。
言峰は一瞬驚いたように眉を上げたが、次の瞬間には鷹揚に頷いてイヤホンの片割れを少女に与えた。受け取ったそれを装着する。存外に感度はよく、はっきりとした音が響いてきた。吸血だのなんだのと物騒な単語か飛び込んでくる。
「では行くか」
「そうね」
互いに言い合い、部屋を後にする。並ぶように廊下を歩く二人は視線こそ合わさぬものの、揃ってヒトの悪い笑みを浮かべていた――